スサノオの逸話と大分の逸話 ねんど古事記余話 大分編(3)


島根県雲南市、日本初之宮(日本最初の神社の意)「須我神社(すがじんじゃ)」の始まりは、ヤマタノオロチを退治したスサノオと、クシナダヒメの新婚のお住まいだったといいます。

スサノオがこの地を「清々しい」と本拠地にして以来、「須賀(すが)」という地名になりました(「我」と「賀」で文字は異なります)。

また大分では、佐賀関「早吸日女神社(はやすひめじんじゃ)」のある地区は「須賀(すか)」地区といい、神武東遷神話の折にカムヤマトイハレビコ(後の神武天皇)が、同じように佐賀関のこの地を「清々しい」と呼ばれたことからその地名になったと聞きました。

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神話が地名の由来となった例は多く見かけます。

今回の「ねんど古事記」全9話のずっと後のお話ですが、比較的知られている例だと「ヤマトタケル」の神話物語において、相模湾を渡ろうとしたヤマトタケル一行は走水に至り突然の暴風で危機に陥った。海神を鎮めるため、ヤマトタケルの妻オトタチバナヒメが海に身を投げ、暴風は収り船を進める事が出来た。そして~

「袖ヶ浦」・・オトタチバナヒメの袖が流れ着いた海岸。千葉の東京湾沿い(袖ケ浦市、もう片袖は習志野市袖ヶ浦)。

「木更津」・・「君去らず」ヤマトタケルは、オトタチバナヒメが身を投げた海が見える場所からなかなか離れられなかった。

「あずま」・・現在の足柄峠でヤマトタケルはオトタチバナヒメを偲んで、「吾妻はや」と嘆いた。この故事にちなんで、日本の東部は「あずま」と呼ばれる。

「嬬恋」・・群馬県の吾妻郡嬬恋村。ヤマトタケルがオトタチバナヒメを恋しがり、名を3度叫んだ地という。現在は「愛妻家の聖地」としてブランディングをされているようです(長い間有名フォークコンサートのつま恋がそこだと勘違いしていました。そちらは静岡県で、今回の神話とは無関係でした。調べるとまた別の「地名起源説話」が出てくるのでしょうか)。

~等々。

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2002年に故郷の大分を離れ15年弱、横浜でフリーのカメラマンとして働いていました。2009年にオリジナルの「ねんど人形写真」を考案し、2012年古事記編纂1300年「神話博しまね」などでねんど人形写真の仕事の実績を得て、2016年夏に、第1期大分市地域おこし協力隊文化・芸術振興部門担当として帰郷しました。

そこで3年間配属になったのが佐賀関支所。用意された住まいは「須賀(すか)地区」、「早吸日女神社(はやすひめじんじゃ)」の参道沿いの一軒家でした(現在は人気を終えて大分市中心部の実家です)。

古事記編纂1300年「神話博しまね」からライフワークとなった神話物語の続きが佐賀関にあったのは偶然の幸せでした。前回「ねんど古事記 大分編(2)禊ぎ神話と大分」もそうですが、今後の記事でも少しずつ詳しく紹介させてください。

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今回使用の写真は2012年古事記編纂1300年「神話博しまね」の時のもの。人形はこの時のモデルマジック粘土で作った初代スサノオとクシナダヒメから、現在は樹脂粘土で新規製作(※)した3代目スサノオと2代目クシナダヒメが手元にあり、ちょっとだけ人形の製作が上手になっているので 笑、また出雲を訪ねて撮影がしたいです。

※ねんど素材の「モデルマジック」「樹脂粘土」について、「熊野権現さまと鬼の石段 ねんど日本昔ばなし 豊後高田市」の項目で詳しく解説しました。ねんど人形制作にご興味がおありの方は、どうぞご覧になってくださいね。


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